コロモヘン便り

日日是好日。日々のこと、時々イラスト載せたりします。

ゆりちゃんの朝活改め宗活~始まり~

※話の内容はあくまで子供時代の私視点の解釈です。事実とは異なることがあります。まずはご理解の上ご一読ください。

※やっさんとゆりちゃんもご理解よろしくお願いします。

 

 

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 我が家は父も母も信仰心が薄いせいか、初詣やお墓参りを家族で行った記憶がない。行っていたかもしれないが記憶にない。意識的にお墓参りに行くようになったのは母が亡くなってからだ。仏壇に手を合わせるのも、お供えをするのも、線香をあげるのも、お経を読むのも、死にまつわるものはすべて母の死がきっかけだった。神社も然り、見えないものに対して手を合わせる意味が分からず、むしろその行為に言いようのない違和感と羞恥心を抱いた。そのくらい信仰心が薄っぺらだったので、お宮参り、七五三参りなどの幼少期の神社仏閣関連は父方の祖父母、特に祖母が筆頭頭として出しゃばっ、いえ、率先して動いてくれた。

 父方の家は菩提寺の役員を引き受けるくらい信仰心が厚かった。それを物語るかのように家の敷地に祠がある。高さ50センチ、直径2メートルほどの小高く土を盛った石垣の中心に榊が植えてあり、その手前に瓦素材でできた祠が置かれていた。

 私の住む地域には父方の姓と同じ家が数軒ある。その姓の一族のために作られた祠だった。どういう理由でその祠が建てられたかは知らないが、毎年同じ姓の人々がそこに集い、祈願していた。

 私が3、4歳の頃、妹の喉に魚の骨が引っかかったことがきっかけで、その信仰心に温度差を感じたことがある。祝いの席だったのか我が家に曾祖母が来ており、それを聞くや否や台所の神棚に手を合わせ拝み始めたのだ。その後ろには泣いている妹を抱っこした母が立っていた。おそらく魚の骨を取ってくださいと神さまにお願いしていたのだろうが、当時の私はそんなことで骨が取れるのかと不思議でたまらなかった。謝って済むなら警察はいらないのと同じで、拝んで済むなら病院はいらない。手を合わせて祈ることへの違和感や羞恥心を抱くようになったのは、確実にこの体験があったからだ。

 神さまに守ってくださいとお願いすることが曾祖母にとっての正義であり思いやりだったのだろう。今なら誰かのために手を合わせ祈ることができる曾祖母は慈愛に満ちた人だと思う。だけど同時にまず、病院に連れてったげてとツッコミたくなった。幸い、魚の骨はその後自然に取れた。きっと曾祖母の祈念が神さまに届いたおかげだろう。妹を助けてくれて小さいおばあちゃんありがとう。

 そんな信仰心薄っぺらの我が家にある日新しい風が吹いた。

 小学4年生の夏から秋になろうとしていた頃。母が姉弟3人をリビングに呼び、まっ黄色のハードカバーの本をひとりずつ渡した。厚さ2㎝ほどで赤い字で表題が印刷してあった。今日からこの本で一緒に勉強しようと言い、母が本を開いた。新しい匂いのする本はどんな内容でもあれなぜかワクワクするものだ。母に続いて何の疑いもなく私も本を開く。美しい挿絵がまず目に入った。絵本にしてはやけに人物や生き物や景色がリアルに描かれており、外国の本のような印象を受けた。表題は確か、「子供のための聖書~」という書き出しだった。

 母は勉強をする理由もそこそこに初めの章を読み始めた。漢字にルビが振ってあったので目で追っていく。聖書の初めの章である創世記だった。私はそれが宗教だとは気付かず、ただの絵本の読み聞かせで娯楽としか捉えていなかった。ましてやそれが後々信仰心薄っぺら一家を翻弄しようとは露知らず。