※話の内容はあくまで子供時代の私視点の解釈です。事実とは異なることがあります。まずはご理解の上ご一読ください。
※やっさんとゆりちゃんもご理解よろしくお願いします。
話は前後するが、私が5、6歳の頃、父が材木を運搬するトラック運転手からバスの運転手になった。
一度母と一緒に同行したことがある。
まだ日の昇っていない早朝、お昼のお弁当を持参しトラックの狭い後部座席に乗せてもらった。座席にはベージュの毛布がたたんで置いてあり、まだ肌寒い季節だった。
初めての大きなトラック、いつもなら夢の中にいる時間帯に父と母とそのお腹には妹がいた時期だろうか、そして1歳の私。トラックの中が幸福感と安心感に包まれているような感覚がして、ただ材木を運搬するだけなのに幼い私はワクワクした。
父が亡くなって気付いたことだが、私は父が運転する車に乗るのが好きだった。さすが小学生の頃から運転しているだけあって安定していた。息をするようにとはまさにこのことを言うのだと思った。ゆるやかな発信と停車が心地良く、長距離ドライブはもちろん、駅までの送迎、買い物の短いドライブも私には至福の癒しだった。なのでそんな父から、運転免許を取得した時に筋がいいと言われた時はとてもうれしかった。ただ車の運転は好きではなく逆にストレスを感じるようになったので、今は車を手放し、ペーパードライバーになっている。いつかまた必要に迫られたら教習所の門を叩こう。
話は戻り、トラック運転手から夢だったバスの運転手に転向する。父からすればトラックからバスに乗り物が変わっただけのことかもしれない。人の懐に入るのが上手な父なので、お客さんとのコミュニケーション必須のバスの運転手はまさに天職のように感じた。
私と妹が小学生に、弟が保育園に通うようになった頃、秋の遠足で父のバス会社を利用することが増えた。「今年は何年生のバスを運転するで」という話題が毎年繰り広げられた。妹と弟の乗るバスを父は何度か運転したことがある。私は内心うらやましかった。今年こそは、今年こそは絶対!と思ってもなかなか叶わなかった。
小学4年生の時、隣町のレンゲ祭りのシャトルバス運行で、父も一員として業務にあたることが決まった。母と私たち姉弟、父の妹とその子供2人計7人で祭りの帰り、シャトルバスに乗った時、なんと父が運転席に座っていた。初めて父の運転するバスに乗った時のうれしいようで気恥ずかしい感じが忘れられない。
町役場の臨時バス乗り場に到着し、バスの前方の扉に向かう。父が下車する子供たちに手を振っていた。家で見ることのない父の一面を見て少し遠い存在に思えたが、それと同時に、「私のお父さんが運転したんよ!」と誇らしげになり自慢したくなった。
その翌年、5年生になり、待望の秋の遠足でついに見事、父の運転するバスに乗ることが決まった。クラスのみんなにはもちろん友達にも秘密でバスに乗り込んだ。今まではただの遠足だったのに、父が運転するバスというだけでこんなに気分が高まるのか、と思った。しかもそれを知っているのはこの中で私たったひとり、秘密を独占している。この背徳感が気分の高まりにいいスパイスとなって刺激した。みんなに教えたいけど教えたくない、教えてしまうと父が私だけのものじゃなくなってしまうような、喜びが半減するような、夢が覚めるような気がした。
しかし、何かのタイミングで帰りの道中、担任と隣のクラスの担任にばれてしまった。「何で早く言わんの?」と大人の社会のルールに反した行動をとがめられ、そこで秘密の独占が終わりを告げた。ちょっぴり苦い思い出となった。
それ以降は学校行事でもそれ以外でも父の運転するバスに乗ることはなくなった。妹と弟は結構な頻度で乗っていたので、その差に嫉妬をしたことがある。その当時はその感情がよく分からなかった。しかしそれは私が父のことを大好きだと証明しているに他ならない事実だと、今更ながら気付いてしまった。
この回想録がきっかけで記憶をたどっていくと、ちょっと離れた距離で幼い女の子を俯瞰で観察しているのが、退行催眠をセルフでしているような感覚と似ているような気がした。彼女の感情に寄り添ってこうだったな、あぁだったなと過去へタイムスリップする。辛いと思っていたことも拾うとギフトだったりした。もっと早く始めればよかったと後悔した。記憶がこれ以上薄れる前に自分と過去と向き合う作業は続く。