※話の内容はあくまで子供時代の私視点の解釈です。事実とは異なることがあります。まずはご理解の上ご一読ください。
※やっさんとゆりちゃんもご理解よろしくお願いします。
母が出産のため、近くの助産院へ入院した。その間父と5歳の私と3歳の妹は、近所の父方の実家へ何日かお世話になることになった。体感的には1泊か2泊だろうか。
1泊目の翌日、父が仕事へ先に行き、私が幼稚園に行く時、妹がパジャマ姿で一緒に付いて来て「帰る!」とぐずりだした。父と私がいなくなりひとり置いて行かれたと勘違いしたのだろうか。背中の丸い小さい曾祖母が必死に妹をなだめるが、頑として言うことを聞かない。私は傍らでどうすることも出来ずただボーッと見ていた。
その日、私が幼稚園から帰って来ると曾祖母がワッフルを焼いてくれた。それをいとこの兄2人と妹と4人で食べた。
家と勝手が違う居心地の悪さはなかなか慣れないが、曾祖母なりに私と妹が寂しくないよう面倒を見てくれた。たしか85歳はとうに超えていたはず、その歳で子供の世話をするのはさぞ大変だったろう。
この滞在期か同時期、曾祖母の娘である祖母からもの言わぬ私目がけて、「うんともすんとも言わんなぁ」と言い放たれたことがある。3、4歳までの頃はやんちゃな性格だったが、成長するにつれ人見知りな部分が目立つようになってきた。特に父方の実家では輪をかけてその人見知りっぷりを発動した。祖母はハキハキもの言う人で礼儀や作法が厳しかった。その一言があってからというもの、私は祖母のことが苦手になっていった。子供は大人のことを意外に冷静に見ている。大人ほどそれを表現できるだけの語彙力は持っていないし意味も分からない。でもその分感受性はピカイチだ。写真では祖母と写っているものがいくつかある。近所に住んでいるなら当然だろう。しかし幼稚園までの記憶はこれのみということに今気付いた。でも、ある時期を境に祖母との逸話は嫌というほど出てくる。
さて、母の出産の話へ戻す。
というのも父の実家のことは正直あまり覚えてはおらず、お風呂でうどんを食べたり、寝る時は2段ベッドの上下でいとこの兄2人とペアで眠らされるという意味不明なことしか記憶にないためだ。
では改めて母の出産の話へ戻す。
4月の晴れた日。助産院に父と私と妹、それと他に誰がいただろうか。後日談から推理するに、父方の祖母と母方の祖母がいただろうか。
難産だった。母体が危ないかもしれないと言われた。にもかかわらず父方の祖母は、分娩室で必死に頑張っている母に対して、否定的な言葉を放った。ひょっとすると人に誤解を招くような表現で労ったとも考えられる。彼女はそういうところがある。どんな言葉だったかはっきり覚えていないが、母方の祖母がその話を私たちにする18年後までしっかり覚えていたということは、母を生んだ親として忘れることができないほどの悔しさを味わったのだろう。それぞれ、その瞬間に何を思い感じながら過ごしていたのだろうか。自分と他人、過去と現代(昭和61年)や、地域ごと微妙に異なる習慣の相違と変化などを、重ねたり比べたりしたのだろうか。そういうことが相まって母に放ったかもしれない。そしてそれを受けて何を思ったのだろうか。それはふたりの祖母にしか分かり得ない。
そして、ついに、ついに難産を乗り越え、桜の季節に4000をはるかに超える大きな男の子を母は産んだ。
助産院の独特の匂いに包まれ、私はベビーベッドで眠っているでっかい赤ちゃんと対面した。4000オーバー。そりゃ難産にもなるわな。
こうして我が家は5人家族になった。貫禄ある4000オーバーの弟は、私達に笑いをたくさんくれた。何せ赤ちゃんなのに、可愛いはずなのに、貫禄がある。このあべこべが実に面白かった。みるみるうちに家族写真が増えていった。