コロモヘン便り

日日是好日。日々のこと、時々イラスト載せたりします。

やっさんとゆりちゃん

※話の内容はあくまで子供時代の私視点の解釈です。事実とは異なることがあります。まずはご理解の上ご一読ください。

※やっさんとゆりちゃんもご理解よろしくお願いします。

 2人はお見合い結婚をした。

 次男坊のやっさんは小さい頃から車が好きで、12歳くらいの時に9つ下の妹をミゼットに乗せ、自宅から12キロほど離れた町まで繰り出したことがあった。

 昭和30年代、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の世界ド真ん中。現代なら大問題になる案件だが、その当時はお巡りさんのお説教のみ。お詫びに大玉のスイカを献上して許されてしまう。そんな時代だった。

 父の亡骸の横で祖母からその話を聞いた私と妹と弟は大笑いした。父は小さい時から父だった。誰からも好かれて父の悪口を言っている人はいなかった、ように覚えている。

 ひょうきんで手先が器用な父は周りの人達のために自発的に動いた。使わなくなった2段ベッドをベンチに作り替えたり、祭の旗を立てやすくするために廃棄されたガードレールのポールを道の両脇に設置した。だけではない。使用しない時はフタができるよう、尚且フタが紛失してしまわないようわざわざチェーンとフタを溶接した。こだわり方が実にAB型っぽいと思うのは私もAB型だからだろうか。とにかく父はよく動く人だった。

 

 次女で末っ子のゆりちゃんは動物が好きな子だった。拾ってきた猫や犬が常にいたそうだ。牛も飼っていたと聞いたことがある。

 (ここでカテゴリーと本題のタイトルの違いに気付かれたかもしれないが、「ゆりちゃん」は母が実際に呼ばれていた愛称で、「うりちゃん」は母が幼少期、自分のことを「うりちゃんは~」と言っていたことを不意に思い出した娘である私が、母はこの呼び名が気に入っていたのではという直感と遊び心で付けた。)

 高校時代は剣道部に所属しており、活発な学生生活を送っていたようだ。

 やると決めたことはとことん突き進む性格で、高校卒業後は東京で洋裁を学んでいた。その繊細な技術は亡くなるまで遺憾なく発揮していた。親戚や近所の人の服を作ったりお直ししたり、私達にも服を作ってくれていた。シャツ、スカート、ズボン、ワンピース、ブレザーにリュックサックまで。何でも作れるのが当たり前すぎて、これが贅沢にも普通だと思っていた。今後悔していることのひとつに「洋裁を教わりたかった」が入っている。

 大きな生地を裁ちバサミでザクザク切る音が大好きだったと、ふと思い出す。その音と内職の電動ミシンの音の傍で私達は大きくなった。